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量子コンピュータを実現するハードウェア(後編)

さて、前回の記事では量子コンピュータを実現するための要件をリストアップした。この記事では、量子コンピュータを実現するハードウェアを紹介していこう。

ほとんどの量子デバイスが格闘しているのは、デコヒーレンスの問題だ。前回の記事で提示したように、量子計算を行うにはデコヒーレンスを十分に抑えることが前提条件となる。
また、デコヒーレンスの他にも、量子コンピュータは前回の記事で紹介した「要件」をクリアしなければならない。また、各物理系にとって得意なことや現状不得意なことがある。それらについて簡単な解説を行いながら量子コンピュータを実現するハードウェアを見ていこう。今回の記事も T. D. Ladd らの論文を参照している。

光子

photonic quantum computer
光量子コンピュータのためのマイクロチップ (T.D.Laddらの論文より引用)

構成要素 実現方法
量子ビット 光子の偏光状態など
1量子ゲート 複屈折材料を用いた波長板の偏光回転
2量子ゲート 非線形光学素子や線形素子を組み合わせるKLM方式

光子は他の量子系と比べて格段にコヒーレンス時間が長いため、量子コンピュータを実現する物理系としては非常に良い性質を持っていると言える。また他の量子系が極低温でなければ動作しないのに対して、室温で動作することができるのも光子の大きなアドバンテージだ。
光を用いた量子コンピュータは、回路型と測定型の2方向で研究・開発されている。
光子を用いた回路型量子コンピュータがどのように構築されているのかを見てみよう。
光子による量子ビットにはよく光子の偏光状態が用いられる。1量子ゲートは、複屈折材料を用いた波長板と呼ばれるものを偏光回転させることで実装できる。量子コンピュータに必要なユニバーサルな量子計算には、1量子ゲートだけでなく、2つの量子ビットを相互作用させて2量子ビットゲートを実現しなければならない。
2量子ビットゲートはかつて非線形光学素子が必要になると考えられていたため、光量子コンピュータの大きな壁となっていた。しかし、現在では、KLM(Knill-Laflamme-Melburn)方式として知られている画期的な方法によって、線形素子を組み合わせてほぼ確率1で2量子ゲートを構築する方法が考案されている。しかし、KLM方式は確率1の実現にはリソースが多い極限を取る必要がありエンタングル状態も必要とし実用的には難しい。そのため、未だ2量子ビットゲートは光量子コンピュータの大きな課題の一つである。
また光を用いると一般的には大きな光学系が必要となるため、集積化に対しての課題も残ってしまう。それに対しては光導波路チップなどを用いた集積化が試みられている。チップではゲートが固定されているため、プログラムが難しいが、近年プログラム可能な光回路も実現しつつある。
光子源、検出器、相互作用においてどのような手法でも依然として光子損失は光量子コンピュータの最も重要な課題である。光子損失はデコヒーレンスと同様に高い閾値の量子エラー訂正技術によって訂正が処理できる。また、光子を使った量子技術の開発は量子コンピュータ以外のところでも力を発揮する。現在の光通信のように量子通信にも光が用いられ、下記で紹介する量子コンピュータの実現においても光を使った量子技術を応用している事例があり、光量子コンピュータ以外の量子技術への応用が多岐に渡ることが光子を使った量子技術の開発の大きなメリットだ。

光量子コンピュータの研究を行なっている日本の研究室には京都大学の竹内研究室などがある。また、上記で紹介した光子を量子ビットとして利用する方法以外にも、連続量の光に離散的な量子ビットを埋め込む(GKP方式)も検討されている。連続量を用いた量子コンピュータについては、東京大学の古澤研究室がある。

光量子コンピュータを開発しているベンチャー企業

• XANADU : https://www.xanadu.ai

イオントラップ

trapped ionsオックスフォード大のイオントラップ量子コンピューティンググループのサイトより. 真空中にトラップされているストロンチウムイオン.

構成要素 実現方法
量子ビット イオンの超微細構造(電子スピンと核スピンによるエネルギー準位)
1量子ゲート レーザーパルスによる制御
2量子ゲート イオンの集団の振動モードの基底状態と第一励起状態を介して行われる相互作用や、
レーザー照射とイオン間のクーロン反発(電荷の反発)を介した相互作用

イオントラップはレーザーによって真空中でイオンを冷却[1]、捕捉(トラップ)することで、イオンの量子状態を制御することができる。その制御した量子状態を量子ビットとすることによって量子コンピュータを実現しようとする開発・研究が行われている。イオントラップを用いた量子コンピュータは上記のようにして量子ビットと相互作用が実現される。

トラップされたイオンは、1秒を精密に定義するための時計として利用されるほど、外界と独立しており外からのノイズの影響を受けにくい。そのため、コヒーレンス時間が長いのが特徴だ。また、量子ビットは光ポンピングという手法により非常に高い精度で初期化を行うことができる。さらに、量子ビットの状態の観測は、レーザーにより励起した後、量子ビットが放出する光子を観測することで非常に高い精度で行われるなど、トラップされたイオンは制御を行いやすい。
トラップされたイオンの場合、コヒーレンス時間は初期化、マルチ量子ビット制御、測定時間よりもずっと長い。この、計算と測定の間中ずっとコヒーレンスが保たれるというイオントラップ の性質は、量子計算において大きな利点となる。イオントラップ量子コンピュータの今後に於ける重要な課題は、如何に、すでに小型システムで実証された高忠実度制御を、より大きく、複雑なアーキテクチャにスケーリングしていくか、にあるだろう。

イオントラップ による量子コンピュータを研究している日本の研究室には、大阪大学の豊田先生、大阪大学の向山研究室などがある。

イオントラップによる量子コンピュータを目指しているベンチャー企業

• IonQ : https://ionq.co

[1] レーザーによって冷却というのは、なんだか直感に反するかもしれない(レーザーを当てたら熱くなりそうな気がしないだろうか?)。レーザー冷却のひとつのドップラー冷却はドップラー効果により理解される。レーザー冷却は面白いので是非調べて欲しい。

超伝導量子ビット

superconductor
GoogleのMartinisグループより. 超伝導量子回路.

構成要素 実現方法
量子ビット 磁束, 電荷, 位相
1量子ゲート 高周波電磁波との相互作用
2量子ゲート 磁気的相互作用, 電荷による電荷相互作用

超伝導量子ビットは、いま最も注目されている物理系と言って良いだろう。
普通の電気回路で量子ビットを作ろうとしたら、抵抗によるエネルギー損失で瞬時にデコヒーレンスしてしまい、量子ビットを構築することはできない。しかし極低温に冷やすと電気抵抗がゼロになる超伝導物質で作った回路では、コヒーレンスをある程度保って量子ビットを作ることができる。それが超伝導量子ビットだ。しかし、一言に超伝導量子ビットといっても、量子ビットを実現する物理的な自由度には「磁束型」、「電荷型」、「位相型」という選択肢がある。
超伝導量子回路は巨視的に定義されたインダクタンスとキャパシタンスの設計によって3つのいずれかによる物理的な自由度の量子ビットが実現される。
現在主力となっているのは、電荷量子ビットの電荷揺らぎ(雑音)を抑えたトランズモン型量子ビットだ。
超伝導量子ビット、電荷量子ビットについての解説は別記事 を参照されたい。
超伝導量子ビットの特筆すべき特徴はその巨視的なスケールにある。100μmという大きさのデバイスでは$10^{10}$個というとても多くの伝導電子の集団による量子効果が起きている。一般にはこのような大きな数の「マクロ的な」状態の重ね合わせはより「ミクロな」システムよりもデコヒーレンスしやすいため量子制御が難しい。実際、超伝導量子ビットはデコヒーレンスに悩まされて来た。しかし、現在はいくつもの技術的なブレイクスルーにより、超伝導量子ビットのコヒーレンス時間は100μsにまで伸びている。しかし、超伝導量子ビットは「マクロ的な」性質のおかげで相互作用が強く、高速に量子ゲートを作用させることができるという量子計算を行う上でのアドバンテージを持つ。
とはいえども、まだ真の量子コンピュータとなるまでの壁は多い。量子ビットの数を増やす際の回路設計もそうだが、量子ビットを増やした際に生じるデコヒーレンスの排除は依然として最大の困難となっている。

超伝導量子ビットを研究している日本の研究室には、東京理科大学の蔡研究室、東京大学の中村・宇佐見研究室がある。

トランズモン型超伝導量子ビットを採用している企業

現在IBMやRigettiなど量子コンピュータのクラウドサービスを提供している企業の採用している方式もこの超伝導量子ビットだ。その意味で超伝導量子ビットは産業界からも最も注目を浴びている量子コンピュータを実現するための物理系だ。
• Google : https://ai.google/research/pubs?area=QuantumAI
• Rigetti : https://www.rigetti.com
• IBM : https://www.research.ibm.com/ibm-q/

半導体量子ドット

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東京大学 樽茶研究室トップページより. 量子ドットのイメージ図.

構成要素 実現方法
量子ビット 人工原子のエネルギー準位や電子スピン
1量子ゲート 高周波電磁波との相互作用
2量子ゲート 静電気ゲートの電圧変化?

イオントラップ のような物理系では、真空中にイオンや単一原子を冷却して捕捉した。量子ドットでは固体中に電子を捕捉して、その電子が作る「原子」のようなエネルギー準位(「人工原子」と呼ばれる)や電子スピンを量子ビットに用いる。
量子ゲートは捕捉された量子ドットへのマイクロ波パルスによって実現される。
LossとDiVincenzoの半導体における量子計算の最初の提案の1つは、2つのスピン状態が量子ビットを提供する単一電子を含む、量子ドットの利用であった。 2量子ゲートは静電気ゲートの電圧を変化させて電子を互いに近づけたり遠ざけたりすることで達成され、交換相互作用を活性化および非活性化することによって行われる。
量子ドットには様々な種類があり、多くは静電的に電子を閉じ込めた箱を指す。他には自己組織化量子ドットがあり、それはランダムな半導体成長プロセスによって電子または正孔を閉じ込めることで作られる。この2つのタイプの量子ドットの主な違いは、それらが作り出す原子の様なポテンシャルの深さである。結果から言えば、静電的に作られた量子ドットは非常に低い温度(1K)で動作し、主に電気的に制御されるが、自己組織化量子ドットはより高い温度(4K)で動作し、主に光学的に制御される。
量子ドットにいれた電子の読み出しは、単一電子トランジスタによって行われる。半導体を用いた量子ドットは現代社会を支えている半導体技術を大いに利用することができるという強みを持つ。
しかし、量子ドットは2量子ビットゲートや量子誤り訂正を実現するために必要な交換相互作用が短距離であり実現するのが難しいが、量子ドット間の光による結合が解決に役立つ可能性がある。現在の課題は集積化と2量子ビットゲートの高精度化が両立可能であることを示すことである。

半導体量子ドットの研究を行なっている日本の研究室には、東京大学の樽茶研究室、慶應義塾大学の伊藤研究室、大阪大学の大岩研究室などがある。

固体に注入された不純物 ( ダイヤモンド色中心 )

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NV中心が入ったダイヤモンド(画像中央のピンク色)(Appl. Phys. Lett. 112, 204102 (2018), Photo credit: Yuimaru Kubo).

構成要素 実現方法
量子ビット ダイヤモンド中の格子欠陥による電子スピンや核スピン
1量子ゲート 高周波電磁波との相互作用
2量子ゲート スピン間の磁気相互作用

ダイヤモンドに不純物を入れることで作られる格子欠陥によって捕捉された電子スピンや、その周りの核スピンを用いた量子ビットが考えられている。
ダイヤモンド中のある炭素原子を窒素原子に置換してできる窒素空孔中心(NV中心)という格子欠陥は量子コンピュータを実現する物理系のひとつである。
NV中心を用いた量子ビットの特徴は、硬い炭素格子に守られ室温でも長いスピンコヒーレンス時間を示すことだ。スピン間の磁気相互作用によって局所的な相互作用が可能であることが示されている。
また、NV中心のようなダイヤモンド中のスピンによる量子ビットはコヒーレンス時間が長いことを生かして、量子メモリとしての活用も研究されている。

NV中心による量子情報処理を研究している日本の研究室には、横浜国立大学の小坂・堀切研究室、京都大学の水落研究室などがある。

NMR (核磁気共鳴)

nmr
大阪大北川研究室サイトより.NMR装置.

構成要素 実現方法
量子ビット 液体溶液中の分子の核スピン
1量子ゲート 高周波電磁波との相互作用
2量子ゲート 電子を介した間接的なカップリング

液体溶液中の分子の核スピンは、急速な分子運動によってイオントラップ に匹敵するコヒーレンス時間を持つ。またNMRと呼ばれる核スピンの高周波電磁波による制御、計測技術には50年以上の歴史があり、1996年にはNMRを用いた小型量子コンピュータを構築する方法が提案された。
強い磁場中の核スピンは固有のラーモア周波数によって同定することができる。動作したい核スピンに共鳴する高周波パルスを照射することにより、個別の周波数の核スピンを操作することができ、1量子ビットゲートを得ることができる。
2量子ビットの相互作用は電子を介した間接的なカップリングによって行われる。測定は量子ビットの集団を含有するサンプル溶液を囲んだコイルに生じる誘導電流を観測することによって行われる。
NMRによって12量子ビットの量子ゲート操作、世界で初めてのShorの因数分解アルゴリズムと量子エラー訂正のプロトコルの実装が可能になった。
初期化はNMR量子コンピュータにとって重要な課題である。NMRに用いられるサンプルは熱平衡状態では核スピンが完全にバラバラな向きを向いているため適切な初期化が必要不可欠だ。現在実験的に用いられている方法ではサイズの拡張が難しい。しかし、アルゴリズム冷却と呼ばれる技術はこの初期化のスケーラビリティという問題を解決すると期待されている。

NMRによる量子コンピュータを研究している日本の研究室には、大阪大学の北川研究室がある。

他の技術

今回は T. D. Ladd らの論文による紹介から量子コンピュータを実現するハードウェア候補を紹介したが、液体ヘリウムの表面上の低いデコヒーレンス環境に電子を浮かべたりなど、上記で紹介された以外の方法でも研究・開発されている物理系は多く存在する。T. D. Ladd らの論文の後半にもいくつか紹介されている。
マイクロソフトはマヨラナフェルミオンを用いたトポロジカル量子計算を、ナノワイヤーによって実装しようと試みている。

大規模な量子コンピュータに向けて

今まで見てきたように量子コンピュータを実現するハードウェア候補は様々だ。

1量子ビットを作る方法は100万とあるが、
100万量子ビットを作る方法は1つしかないだろう。
by Terry Rudolph (PsiQuantum)

大規模な量子コンピュータは非常に野心的な目標であり、まだこの中からどの物理系が真の量子コンピュータへと花開くかはわからない。
しかし、量子コンピュータの実現に向けた様々な方向からの開発は、我々を量子力学の特性を制御することに慣れさせ、そこから新たな材料や新しいタイプのセンサ、通信などの他の量子技術の発展につながることも期待されている。
その先にすべての要件をクリアした真の量子コンピュータが生まれることを期待したい。

量子コンピュータを実現するハードウェア(後編)
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